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重慶の文化

  「巴渝文化」とは、長江の上流地域で発祥した特色に富んだ民俗文化の一つです。「巴文化」から発展してきて、歴史上の「巴族」と「巴国」の発展にしたがい、形成された地域性の文化です。

  高山と大河の多い地域で、厳しい自然環境の中で生き残り、巴族の人々は、勇猛で根気強い性格を身につけました。このような性格を受け継いだ今日の重慶の男性達が情熱に溢れ、気迫に満ちているに対し、女性達が流れる水のように優しい性格を持っている上、男に負けない英気に溢れていると言われます。

  ——川劇

  「巴渝文化」の中では、「川劇」は主要な代表物の一つです。長く久しい歴史を経て、伝統的な演目や楽曲、そして巧妙な表現手法が多く継がれてきました。

  四川省では、かつて外の省から伝わってきた「昆腔」、「高腔」、「胡琴腔」、「弾戯」および「四川民間灯戯」が流行っており、この五つの芸術手法はよく同じ舞台で演じられ、次第に統合され、同じスタイルになり、清時代の末から「川戯」と総称され始め、後に「川劇」に改称されました。

  川劇特有の「変臉」、「噴火」、「水袖」などの特技に加え、写意的な演技のため、川劇は人々に好まれ、世界中に知られ利用になりました。特に、その「白蛇伝、金山寺」は国内外に広く伝わっています。

  ——川江号子

  重慶から巫山にかけて、長江の千里の水路は狭く、曲がりくねており、暗礁と急流が非常に多いです。昔は、人力によって船を引いていたため、リズムをとった掛け声で十人ないし百人の労働者を指揮しなければなりませんでした。したがって、とうとうと流れる河川の上で、船で働いている人を歌う歌謡が多く歌われて川江号子と呼ばれました。

  力強い川江号子は峡谷に響き渡り、櫓をこぐ音とマッチし、船員の疲れを取りました。今日、川江号子はすでに「国家無形文化財」に指定されています。

  ——埠頭文化

  これまで重慶は、長江上流水路の要衝であり、埠頭が多くあり、商船や旅客の往来も頻繁です。西南地域と長江流域の都市文化が融合し、重慶独自の市井文化と「埠頭文化」をはぐくみました。

  重慶の埠頭文化は、「袍哥文化」と「茶館文化」という二つの主要な要素を含んでいます。その中の「袍哥文化」とは、「哥老会」「天地会」「袍哥会」などのような地下民間結社が都市文化に与えた影響です。

  そのほか、蜀繍、「龍門陣」、重慶方言、四川料理等も巴渝文化の代表的なものだといっていいです。このような独特な巴渝文化によって今日の重慶文化が生まれたのです。

  「臨時首都」

  日中戦争の勃発とともに、日本軍は1938年10月に広州と武漢を占領したため、国民政府は南京から重慶まで撤退し、重慶を「臨時首都」としました。実際は「戦時臨時首都」です。したがって、重慶は当時中国の政治、軍事、経済および外交の中心でありました。

  戦争時の重慶は、アメリカのワシントン、イギリスのロンドン、旧ソ連のモスクワとともに、世界反ファシズム戦争の四大都市と称され、または「国共協力」の重要な政治舞台となりました。重慶が臨時首都であった七年間で、数多くの旧跡や逸話を残しました。

  大まかな統計によると、大小を問わず、重慶の陪都旧跡は400箇所以上あり、都市化の進展に伴い、存在しなくなったのもありますが、保存されてきたものの中には、蒋介石・宋美齢をはじめとする国民政府の要人の官邸や住居、及び「国共第二次協力」の記念建築物(例えば 重慶会談や「双十協定」締結の旧跡)の2種類があります。

  重慶市の南山にある「黄山蒋介石官邸」は、最もよく保存された故居遺址です。そして、国共平和交渉会議の旧跡としては、紅岩村、曾家岩50号、桂園などが代表的な物です。特に、桂園は、もともと国民党の張治中将軍の官邸でしたが、国共会議が開催される間、張将軍は自分の官邸を毛沢東の居所として供した物です。1945年10月10日、国共平和交渉会議の「会談要録」はこの桂園の客間で署名されました。

  戦争時、国民政府が重慶に移るに伴い、多くの工場や学校などが北京や上海南京から重慶に移ってきました。今日の重慶にある大手企業の多くは、その時移ってきたものです。また、抗日の愛国者たちが次々と重慶に移ってきました。多くの教育家や学者が重慶の学校で教鞭を執った、重慶で定住する芸術界の名士も少なくなりました。例えば、郭沫若、柳亜子、馬寅初、陶行知、梁漱溟、徐悲鴻、老舍などが挙げられます。彼らは臨時首都文化を繁栄させ、当時の重慶は四川省の文化と教育のセンターとなりました。大学など高等教育機関が集まった重慶の沙坪壩は文化の中心として有名になりました。現在の重慶大学のキャンパスの中には、当時の国立中央大学の旧跡がまだ保存されています。