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「蹇家橋」から「五四路」へ 変わる名前 変わらない歴史
2017-04-28 09:58

「五四路」の街並み

 【華龍網重慶】蹇家橋というと、五里霧中に陥る重慶地元の人もたくさんいるかも知らない。この地名を知っている人は確かに少ない。だが、五四路と言えば、知っている方は多くなる。重慶の繁華街として、高層ビルが立ち並んでいる五四路に、様々な店がたくさん集まっている。実は五四路は昔の蹇家橋で、長い歴史を持っている。

 「蹇家橋」から「五四路」へ

 歴史書によると、明の洪武18年、重慶巴県の蹇義は朱元璋の勅命で進士になり、朝廷の大臣として50年ぐらい勤めて続き、六つの皇帝に信頼された重臣になったそうだ。 

 彼の後に、蹇賢、皋や蹇超などの子孫があって、明の歴史を見渡すと、蹇氏一族は政治業績があまりなかったが、重慶城に蹇氏一族の建築をたくさん残した。主に住宅、廟のようなものだ。例えば、蹇家巷や蹇家橋などの所だ。

 2005年、重慶渝北区で蹇氏後代蹇荃の墓所が発見された。 

 どうして「蹇家橋」は「五四路」に変えられたのか?1939年、重慶は日本軍に爆撃され、「五三」、「五四」大爆撃の時、蹇家橋街がまる焼けた。三日三晩焼いて、すべての家が全焼した。 

 1945年、抗日戦争で中国が勝利した後、この街は建て直されて、戦争の記念として、そして国民に国の恥を忘れないように、「五四路」と名付けられた。 

 遺跡が多い

 名前を変えても、この街の名所旧跡と歴史の重さは消えていない。特に、戦争の頃、繫華街としてのこの街に、ユーロッパ風の建築がたくさん建たれた。

 五四路の元警察署の旧跡の中に、ある古いヨーロッパ風のレンガと木材を組み合わせた三階建てがあって、それが中英連絡所であった。幸い、戦争の後、この建物ちゃんと残った。これの前身は、有名な元重慶教区(東四川省教区)大司教の家「蹇家橋真原堂」であった。
    街の向こうはアメリカの宣教師マガリが1892年に設立され教会寛仁病院だった。当時中国で最も美しい病院で、西南地域の最初の病院であったが、今はもう残っていない
  新五四路と五四路

 解放碑商業地区中核地域にある今の五四路は非常に賑やかだ。ちなみに、両江国際映画城ミニバージョンの五四路がある。この「五四路」も映画城の中核地域にあって、昔の建築の複製品もたくさん建てられがたくさん建てられた。この街には、中英連絡所、旧ソ連大使館、豊望楼およびカテドラルもある。観光客は現代の五四路を見たいなら、解放碑に行けば見られる。中華民国時期の五四路を見たいなら、両江国際映画城に行ってみるのもわるくない
  重慶は長い歴史を持つ都市として、我々にたくさんの歴史遺跡と伝説を残した。この物語にあふれ街はさらに重慶独特な文化の雰囲気を醸し出した。

 

 

 

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編集:劉彦君